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【書評】『ひとを「嫌う」ということ』著者:中島義道

哲学者の中島義道さんの『ひとを「嫌う」ということ』を読みました。

哲学の本を読んでいると、一般常識とされる事を、「本当にそうなのか?」という視点で見ることが出来るので新鮮です。

この本のテーマは「人を嫌う」と言う事についてです。日本の教育では「皆仲良くが当たり前」と教育されます。

 社会はそんな甘い所ではありませんし、そもそも自然は弱肉強食なので、皆仲良くと言うのは理想論に近いことではあるのですが、誰かを嫌いと言うのは、大声で言ってはいけない空気があります。そんな「嫌い」というタブーに切り込んでいる感じがしますが、それも哲学者と言う立場だからこそ堂々と意見が出来るのかもしれません。

世の中には不思議な考え方をする人が大勢いて、彼らは地上のすべての人を好きにならなければならないと思いこんでいる。あるいは、そこまで行かなくとも、誰をも嫌ってはならないと信じ込んでいる。ですから、そういう人は、自分がある人を嫌っていることを自覚すると、大層悩むのです。自分はXを嫌ってしまった。なんという不謹慎な不道徳的な人間なのだろう。と自分を責めたてるのです。嫌う理由が充分ありながらも、悩み続ける。

私も両親に厳格に育てられたからか、こういった考え方をしていました。誰も嫌ってはいけないし、嫌われてもいけない。いわゆる、すごく善良な人ですよね。良い人なんです。

その考え方自体は悪いことではありませんが、なんと言いますか、人は「嫌う」という感情は当たり前のようにあるわけで、その感情を持つ自分を認めた上で、誰も嫌わないように、嫌われないようなものを目指すのならいいのですが、その感情を持つこと自体が汚れている、みたいに思っていた訳なんですね。

だから常に自己嫌悪をしていましたね、交流関係も、絶対に嫌いにならない人だけを選んで付き合ったりしていました。

われわれは、普通相手から嫌われないようにすることに大奮闘したあげくにそれが報われないとなりますと、掌を返したほうに今度は相手を大嫌いに持ってゆく。相手が嫌っている以上に嫌おうと決意してしまう。「嫌い」をゼロにするように努力するか、そうでなければ無限大にもってゆく。こうした単純なに現職ですべてを塗り込めようとするから「嫌い恐怖症候群」の人生は乏しいのです。さまざまな淡い中間色、深い混合色が複雑に配置された人生のほうがずっと豊かだと思いますが。つまり、さまざまな強度のさまざまな色合いの「好き」と「嫌い」が彩っている人生こそ、すばらしいものではないでしょうか。きれいごとに響くかもしれませんが、いかなる職場でも適度にあなたを嫌う人がいたほうが、そこからあなたはさまざまな他人との関係の仕方を学ぶことができる。どこに配置されても、あなたを大好きな人ばかりはいないのですから、そしてその理由は理不尽なのですから、自分が崩れてしまうほど耐えがたいのでないのなら、そこで「抵抗力」をつける技術を学ぶことが必要です。

人を嫌うな、人に嫌われるなと言う教育は私は、あまり好きではありません。確かに人を嫌うな、人に嫌われるなと言うのは、村や会社などの組織を長く続かせたい時には有効な考え方かもしれませんが、それが通用しない場所も多いからです。

農耕民族の場合は、喧嘩をせず、野菜や米を皆で育てて分け合えれば生きていけるので、一番それが有効なのかもしれません。

ですが、広い世の中に出ればそんな事は言ってられない場合も出てきます。人には欲があります。より良い異性を獲得したい気持ちから、競争も起きます。だから出し抜く気持ちも当然出てきますし、差別意識も起きます。そこで嫌いと言う感情が出ないはずがない。

そこで、嫌いという感情を認めない場合は、自己嫌悪し、競争に負けるしかないでしょう。

そもそも人を嫌わない、嫌われない人は、人間である以上この世に一人もいないのに、それを押し付けるような風潮が私は大嫌いです。

『「嫌い」という感情は誰でも持つけれど、仲良くした方が良い時は、「嫌い」の感情を見せない方が良い時もある。』くらいに教えたら良いのではないかと思います。